松帆神社ブログ第8回・御祭神の陵墓を訪ねて

今回の松帆神社ブログは、御祭神である八幡大神のお墓、応神天皇陵・仲哀天皇陵・神功皇后陵の訪問・参拝の様子をお届けします。

そもそも、「陵(りょう)」という言葉があまり一般的でない言葉なのですが、訓読みでは「陵(みささぎ)」と読み、広辞苑を引くと「歴代天皇や皇后、皇太后、太皇太后の墓所」とあります。現在、こうした陵墓(りょうぼ)には皇族のものも含まれ、宮内庁が一括して管理しています。その為、学術調査等は自由には行えず、調査する場合には宮内庁の特別の許可を取って慎重に行われているそうです。

陵墓自体は全国に分布し、近世の明治天皇陵は伏見に、大正・昭和天皇陵は東京・高尾にありますが、最も多く分布するのは過去に都のあった大阪南東部、奈良、京都等になります。今回訪れた三つの陵墓は、そうした陵墓が集積している羽曳野市周辺の古市古墳群(ふるいちこふんぐん)と奈良平城京跡周辺にあります。

更に、今回訪れる応神天皇陵・仲哀天皇陵・神功皇后陵には共通点があります。それは、皆さんも歴史の授業等で一度は耳にしたことがある「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」であるという点です。丁度、昔の鍵穴のような形をしたこの前方後円墳は、3世紀~6世紀の弥生時代末から古墳時代の間、多数造営されました。

古代の世界の他の地域でも、墳墓は王権の強大さの象徴として巨大なものが築かれましたが、前方後円墳においても同様で、五世紀に入ると 敷地面積ではエジプトのピラミッドよりも巨大な最大の前方後円墳、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が現れるに至りました。仁徳天皇陵は、墳丘自体の最大長が486m、高さは36m、濠(ほり)部分も含めた古墳全体での最大長は840mという数値を聞くとその巨大さが分かります。

 

仏教の伝来と浸透により、7世紀には巨大な墳墓を作る事が控えられるようになりましたが、古代の大和王朝の隆盛を示すまたとない事例として現在まで残っているのです。

それでは、実際に三柱の御祭神の陵墓の様子をご覧いただきましょう。

●応神天皇陵

応神天皇陵は通称名で、学術的には誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳という名称が付けられていますが、陵墓そのものの正式な名称は「惠我藻伏崗陵」(えがのもふしのおかのみささぎ)となります。

所在地は、羽曳野市と藤井寺市の境界に近い一帯に広がる古市古墳群の一角です。すぐ西にはお父上の仲哀天皇陵が、更に南にはおじい様にあたる日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓と伝わる白鳥陵古墳があります。

 

応神天皇陵の北側、台形の方墳側には宮内庁の管理事務所と陵墓の遥拝所が設置されています。実際に埋葬がされているのは円墳側で、方墳側では祭祀が営まれたという説があるそうで、前方後円墳の場合、遥拝所は常に方墳側の底辺にあたる場所の中央部に設けられているようです。

 

遥拝所からは、壮大な応神天皇陵の様子が伺えますが、それと知らなければ小高い丘としか見えない位の存在感に圧倒されます。

 

応神天皇陵の南側には、応神天皇のお墓である円墳を守るかのように、誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)が鎮座しておられます。誉田八幡宮は欽明天皇(在位:539~571年と伝わる)により建立され、歴代天皇も何度も行幸なさった由緒ある八幡宮です。

 

大きな拝殿の右奥には、応神天皇陵の南側からの遥拝所が設置されています。写真に見えるアーチ型の放生橋(ほうじょうばし)は、秋季大祭の折に神輿がこの上を通って応神天皇陵まで渡御する為に使われているとの事でした。

 

応神天皇陵は墳丘の最大長が425m、高さ36mと仁徳天皇陵に次ぐ大きさを誇りますが、実際にこうして現地で目にすると、これだけ巨大な陵墓を築いた古代の技術力や生産力の高さ、応神天皇に対する民の畏敬の念の強さを感じられた気がします。仏教の本格的伝来前、まさしく天皇が国を統べる現人神(あらひとがみ)・絶対至高の存在であったからこそ、これだけの大事業が成し遂げられたのだな…と1600年以上前の日本に思いを馳せたひと時でした。

●仲哀天皇陵

応神天皇陵のすぐ西にある仲哀天皇陵は、学術的には岡ミサンザイ古墳、正式には「惠我長野西陵」(えがのながののにしのみささぎ)という名称の陵墓です。

墳丘の最大長は245mと応神天皇陵よりやや小ぶり(全国にある前方後円墳内では16位)ですが、それでも遥拝所から間近に拝見するとその大きさには驚かされます。

 

仲哀天皇陵は応神天皇陵よりも濠の部分が大きく、現在も満々と水をたたえた状態で保存されている事が特徴です。濠の幅が最大50mあるそうで、そのことが墳丘のサイズ以上に陵墓全体の大きさ・雄大さを感じさせる要因になっていると感じました。

<下の写真は藤井寺市HP空撮写真より転載したものです>

 

●神功皇后陵

奈良は平城京跡の北側に位置する神功皇后陵は、学術的には五社神(ごさし)古墳、正式には「狹城盾列池上陵」(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)という名称で、墳丘自体の最大長は267m(前方後円墳内で全国第12位)とこちらも規模の大きい陵墓です。

 

御祭神の陵墓巡りの最後に伺った折にはすでに夕暮れ時になっておりましたが、その中に静かに佇む神功皇后陵には、先に伺った応神天皇陵・仲哀天皇陵とはまた違った神々しさを感じました。陵墓の大きさも歴代天皇の陵墓に引けを取らないものですが、仲哀天皇崩御の後、摂政として幼い皇太子時代の応神天皇を支え国を治められたという大きな御事跡を考えると、それも当然の事と思えます。

 

今回、こうして三柱の御祭神の陵墓を巡った訳ですが、こうして現代まで陵墓がしっかりと保存されている事自体が、歴代の天皇・皇后陛下や皇族方への国民の崇敬を現していると言えるのではないかと思います。(残念ながら仲哀天皇陵は、城として一時利用された跡があるようですが、陵墓自体の破壊は逃れてしっかりと保存されています)

陵墓に限らず、古くから我々のご先祖達が守り伝えてきた文化遺産や心構えをこれからも大事に残し伝えていきたいものです。

折しも、応神天皇陵・仲哀天皇陵を含む古市古墳群と仁徳天応陵を含む百舌鳥(もず)古墳群とを合わせて世界遺産に登録しようという活動が始まっているそうです。期待して吉報を待ちましょう。

2017年02月24日