松帆神社ブログ第4回・「菊一文字」よもやま話

松帆神社ブログ第4回は、松帆神社の社宝・名刀「菊一文字」発見当時や戦後混乱期の様子を伝える先代宮司の著作物を元に、今までほとんど表に出ていない裏話的なエピソードを紹介させていただきます。

※ちなみに先代宮司の書き残したものはコピーでしか残っていない為、正確な書名が判明しておりません。記載内容から、恐らく淡路島全体の各神社の詳細な歴史等を記した書物に、松帆神社の内容を寄稿したもののようです。(年代は昭和38~39年頃か?) 原典の詳細不明の点、何卒ご容赦下さい。

<菊一文字流出の危機!?>

では、ここからはその書物の内容の中から、菊一文字が松帆神社から流出する危機が二度もあった…というお話を抜粋してご紹介。

「この菊一文字について面白い話がある。それは当然あるべき松帆神社という座から離れようとした事で、率直に言うと人手に渡ろうとした事が二度ある。一度目はある人を介して由良要塞司令官(注1)が買い取りを依頼してきた時である。当時、昭和9年頃の事で、一般的には当社の菊一文字については誰も知っていなかった時分であったのに、恐らく神社の明細帳によってでも知ったのであろうか。由良要塞司令官と言えば少将級の人で、軍国主義華やかなりし当時としては飛ぶ鳥も落とす勢いであったし、菊一文字そのものも他の奉納刀と一緒に本殿の片隅にしまい込んであった訳であるから、総代としても大いに食指が動いたらしかったが、いくら何でも神社明細帳の財産台帳に載っているものを軽々に処分するまでには至らずそのままになってしまった。後で考えれば、この騒動がきっかけになって菊一文字 松帆神社にありという事が世に出る事になったのであるから、これも宝刀の霊力と言えば言えるかもしれぬ。」

(注1)「由良要塞」とは戦前、大阪湾防衛の目的で淡路島最南端の由良地区の山中、友ヶ島、和歌山の加太の山中等に設けられた帝国陸軍の要塞。

(以下の地図参照。淡路島北東にある青丸は松帆神社の位置を示す。)

Web上で確認できる情報を総合すると、昭和9年当時の由良要塞司令官は 清水喜重(よししげ)中将と思われる。(昭和8年3月就任、昭和9年12月異動)

 

「二度目は終戦の時で、今でこそ言えるが、占領軍の廃刀令(注2)には全くびくびくもので、恐らく他の誰もが同じ気持ちを体験したことだろう。他に数本あった奉納刀を人身御供のような形で供出したが、菊一文字だけは出さずにある場所にしまった。(注3) もし露見したら「これは御神体であって武器ではない」と言うつもりで多寡をくくっていた。この二度の危機をくぐった菊一文字に対して思うことは、名刀に霊力ありという事で、今般 図らずもアメリカより返還された照国神社の宝刀・国宗の場合に限らないという事である。」

(注2)昭和21年のポツダム勅令の中に含まれる「銃砲等所持禁止令」を指すと思われる。この時、貴重な刀剣の数々がアメリカを含め、国外に散逸したと伝わる。文中にある「国宗」(鹿児島・照国神社所蔵の国宝太刀)も国外に持ち出され、行方不明となったが、アメリカ人愛刀家ウォルター・コンプトン氏により発見され、昭和38年に返還された。  ※「国宗」関連の記述は照国神社HPより転載

(注3)当時、小学生の現宮司と先代宮司の二人で、大八車に菊一文字や他の宝物を載せ、山あいの白山地区の総代宅に片道3時間かけて隠しに行った…との事。

先代宮司の残した菊一文字に関する逸話は以上ですが、今では考えられない激動の出来事が当時にはあったようです。更に、文中にあったように昭和9年に清水中将からの買取要請が流れた後、「東浦の松帆神社に菊一文字あり」という話が洲本や福良(南あわじ市)にも伝わる中で、次に示すありがたい話もでてきたようです。

<淡路島挙げて「宝刀」を奉る>

当HPの「菊一文字」のページにあるように、菊一文字は発見されてから本阿弥光遜氏の鑑定を受け、本阿弥家として「真正・菊御作」の鑑定書(本阿弥折紙)をいただいたのですが、その日付は昭和8年9月となっています。この後、先代宮司が菊一文字を神社明細帳にも登録し、翌年には清水中将の買取騒動となる訳ですが、次のトピックとしては昭和10年5月の文部省からの「重要美術品」認定が挙げられます。

本阿弥家の折紙は勿論、刀剣の世界においては絶大な権威を持ちますが、江戸時代のように幕府の公的役職を兼ねていた頃と異なり、昭和の時代においてはあくまでも「専門家の見解」に過ぎない部分があります。ただ、文部省認定は国から公に認められたという事になる為、周囲の騒ぎも更に大きくなったようです。

5月の重要美術品認定を受けて、すぐさま本殿右脇にあった絵馬殿が現在の懐古館の位置に移設され、その跡地に宝物殿の建設が開始され、その年の11月には竣工したとの記録が残っています。この時、淡路島全島挙げて宝刀を新たな宝物殿に奉ろうという動きがあったそうで、当時 淡路島出身で中央政界において立身出世を成し遂げておられた永田秀次郎氏に、総代の代表が「宝物殿」の額の文字の揮毫(きごう)をお願いしに上京した…という話が伝わっております。

永田秀次郎氏は現在の南あわじ市倭文長田の出身で、大正~戦前にかけて三重県知事・東京市長(今の東京都知事に相当)・貴族院勅選議員・拓殖大学学長・拓務大臣・鉄道大臣など要職を歴任された方です。その一方で、「永田青嵐」のペンネームで多数の著作を残すなど、文化面にも通じた、淡路島史上に残る偉人と言えるでしょう。東京市長時代には、関東大震災からの復興に尽力をされたそうです。

 

◆昭和5年 永田青嵐名義で出版された著書『梅白し 青嵐随筆』内の写真より

永田秀次郎氏は南あわじ市、当時の三原郡の出身であって、本来は東浦の八幡宮・松帆神社とは縁もゆかりもない筈ですが、淡路島から菊一文字が出たという話を喜んでいただき、揮毫のお願いを引き受けていただいたそうです。  ※以下の画像の「宝物殿」の文字が永田氏直筆の文字から起こしたもの

 

今回は、従来はあまり表に出てこなかった70年以上前の菊一文字関連の逸話を振り返ってきました。こうやって書いていると、今現在、菊一文字が松帆神社にある事を当たり前の事と思わず、先代宮司の書き残した通り「宝刀たる霊力をもって松帆神社にお留まりになっている」と考え、有り難く思い全力でお守りしていかねば…と感じる次第です。

2016年09月21日